プチ小説「こんにちは、N先生 42」

N先生と私はササヤ書店の前で2時間ほど『人間の絆』の話をしたのでそろそろ場所を移動しようかと先生が言われると思ったのですが、先生は、足が草臥れていないかいと言っただけで話を続けられました。
「ところで最近君は松本清張の小説を西洋文学と並行して読んでいるようだが、だいぶん読んだのかな」
「前から読みたかった、『ゼロの焦点』『Dの複合』『目の壁』『時間の習俗』を読み終えたので『砂の器』を読むつもりでしたが、短編集『或る「小倉日記」伝』を読んで面白かったので、先に新潮文庫から出ている6冊の短編集を読むことにしました。新潮文庫からはもう一つ最近出版された『なぜ「星図」が開いていたか』という7つ目の短編集がありますが、昔から読まれて来たのは、『或る「小倉日誌」伝』『黒地の絵』というタイトルの現代小説集、『張込み』『駅路』というタイトルの推理小説集、『西郷札』『佐渡流人行』というタイトルの時代小説集の6冊です。他の出版社からも短編小説集が出版されていますが、こちらはまったく読んでいません。機会があれば読もうと思っています」
「新潮文庫の方は全部読んだのかな」
「『駅路』が途中で、『黒地の絵』はまだ手を付けていません。他の4冊は読みました。特に『西郷札』『佐渡流人行』の2冊はとても面白かったです」
「そうかい、でも確か君は日本の時代小説はほとんど読まないと言っていなかったっけ」
「そうです、時代劇の頃を描いた小説と擬古文で書かれた小説は理解できないので、全く読んでいません。具体的に言うと、司馬遼太郎、柴田錬三郎、山岡荘八、吉川英治、池波正太郎、野村胡堂、岡本綺堂などの文豪が書かれた時代小説、それから明治、大正の時代に擬古文で書かれた文学作品(『草枕』『舞姫』『たけくらべ』など)は何度も読もうと思ったのですが、ぼくには敷居が高いようです」
「まあ、誰でも苦手というものはあるから仕方がないが、それを遠ざけることでためになる読書を逃してしまうのは勿体ないことだと思うよ」
「確かに苦手だからと時代小説は遠ざけていたのですが、『西郷札』と『佐渡流人行』はそんなぼくでも楽しめたんです」
「どの時代を描いているのかな」
「整理してみたいので、長くなりますがお付き合いください。『西郷札』には12編の短編小説が収録されています。「西郷札」は明治7年、「くるま宿」は明治9年、「梟示抄」は明治初期、「啾啾吟」は弘化3年(1846年)、「戦国権謀」は慶長12年(1607年)、「権妻」は江戸時代、「酒井の刃傷」は寛延2年(1749年)、「二代の殉死」は慶安4年(1651年)、「面貌」は慶長5年(1600年)、「恋情」は明治17年、「噂始末」は寛永11年(1634年)、「白梅の香」は享保16年(1731年)となっていて、江戸時代と明治時代のいろいろな職業の人物が描かれています。松本清張の時代小説が面白いのはいわゆる落ちがあるからで、これらの小説の中では、「西郷札」の他、「恋情」「白梅の香」が面白かったです」
「「戦国権謀」と「面貌」には徳川家康が登場するんだったね。『佐渡流人行」の方はどうだった」
「「腹中の敵」は天正2年(1574年)、「秀頼走路」は元和元年(1615年)、「戦国謀略」は天文23年(1554年)、「ひとりの武将」は永禄3年(1560年)、「いびき」は江戸時代、「陰謀将軍」は永禄8年(1565年)、「佐渡流人行」は江戸時代、「甲府在番」は江戸時代、「流人騒ぎ」は享和2年(1802年)、「左の腕」は江戸時代、「怖妻の棺」は江戸時代を舞台としています。明治時代のものはなく、江戸時代となっているものはすべて作者の創作です。時代劇との設定だけで、清張はいつものようにのびのびとエンターテインメント小説を書いています。この中では、室町幕府第15代(最後の)征夷大将軍足利義昭の足跡をたどる「陰謀将軍」や毛利元就の謀略を描いた「戦国謀略」も興味深いのですが、「いびき」「佐渡流人行」「甲府在番」「左の腕」「怖妻の棺」は清張の読者を楽しませようという意欲に満ちていて心底楽しめます」
「そしたらその2冊を高校生の頃に君が読んでいたら、日本の歴史小説に傾倒して行ったかもしれないね」
「さあ、どうでしょうか。他にも松本清張は時代小説を書いていて、角川文庫の『蔵の中』は面白そうですが、それを読んだ後は、読みやすい現代小説や翻訳を選んだと思います。清張の文体は読みやすく落ちもあるのですが、他の歴史小説作家の作品に清張と同様の興味を持てたかについては可能性は低いとしか言えないですね。それにディケンズやデュマのいくつかの小説を読んだ時の達成感はないと思います。それに私は日本史の知識に乏しいですので、今後も西洋文学中心の読書になると思います」
「そうか、ところで『人間の絆』を読み終えたら、次は何を読むのかな」
「今、懸賞に応募する小説を書いているのですが、その参考のために、ウェルズとヴェルヌの作品をちょっと読んでみようかなと思っています」
「まあ、いろいろ読んでみて、面白かったら得した気分になるし、血肉になったら結構なことだ。せいぜい読書を楽しむことだ」