プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生115」
小川は名曲喫茶ヴィオロンでの演奏会の当日の午前中に会社にどうしても出勤しなければならなくなり、前日に
アユミ宅に電話を入れ、演奏が始まる午後2時の30分前に行くことで了解を得た。小川は、午後1時半過ぎに
ヴィオロンに着いたが、演奏者は誰も来ていなかった。それから10分程してアユミの夫が小川の二人の娘を
連れて小川の前に現れた。
「やあ、ビックリされたでしょう。ぼくもある程度は予想していたのですが...」
「どうされたのですか」
「実はアユミのお腹の中には...」
「そうだったんですか。それだったら、今日は無理をしないで休んでおられた方がいいでしょう」
「そうなんですが、コンサートの方はなんとかやりたいと思うんです。私は、学生時代にやったプロレスラーの
形態模写、豊登、ラッシャー木村、ジャイアント馬場などができるのですが、このことを秋子さんとアユミに
言ったら叱られました。あなたのワンマンショーならいいけれど他の人のことも考えて、プロレスや大道芸的な
ことはしないでと。でも今日の演目はすべてアユミの伴奏か独奏で構成されているので、その部分を別の曲に
変えるか、楽器編成を変えなければならないのです」
「ご主人は中学の時にクラリネットを習っていたとおっしゃっていましたが、他に楽器はされないのですか」
「もちろん音大出なのでピアノを少しは引けますが、歌を歌うか作曲ばかりしていたもので...」
「で、秋子は来るんですか」
「えーと、どうなんでしょう。あっ、来られましたよ」
「みなさん、お待たせしました。早速ですけれど、アユミさんからのメッセージを皆さんに伝えます。今日は一緒に演奏
できなくでごめんなさい。みんな、私の分も頑張って下さい。ところで小川さん、小川さんは今日は司会をして下さい」
「はい、わかりました」
「深美さんと桃香さんは今回のために練習した曲の他、おかあさんが用意した童謡を楽しく歌って下さい。先生と
一緒に一度は歌ったことがある曲だから、大丈夫よね」
「はーい、ダイジョーブです」
「あなた、これはご主人への伝言ですが、あなたは音大にいた頃の感覚を取り戻してピアノ伴奏を全面的にお願いします。
最初に秋子がメンバーの一人が急用で出演できなくなったことを説明して、他のメンバーでできるだけ頑張ることを
お客さんに伝えるので、あなたはすべてをきっちり伴奏しようとしないで要所要所にピアノの音を入れるようにして下さい。
宴会用の芸は御法度ですが、学生時代によくやったあれは、今日は許可します」
「そうか、がんばるぞ」
「最後に、秋子は今日する予定だった、モーツァルトのクラリネット協奏曲をピアノ伴奏でするのは、次回にしてもらって
観客の方が一緒に口ずさめるような名曲をたくさん吹いて下さい。じゃあ、みなさん頑張って下さい」
「ところでご主人、学生時代によくやったあれというのはなんですか」
「それは、「ラ・ボエーム」の第1幕の最後のところでロドルフォとミミが「冷たい手を」や「私の名はミミ」を歌うところが
あり、自分で抜粋、編曲して一人二役でピアノを引きながらやっていたんですよ。もちろんミミが歌うところは裏声で...」