プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生250」
小川は、会社の帰りに久しぶりに風光書房に立ち寄った。店内に入るとすぐに店主と目が合い、店主は小川に笑顔で
話し掛けた。
「やあ、小川さん、お待ちしておりました」
「と、言うと何か吉報があるのですか」
「多分、吉報になるんだろうなあ、でも、条件付きですね」
「うーん、意味がわからないなあ。それって、どういうことですか」
「小川さんが、待ちに待った、「ニコラス・ニクルビー」が上下揃って入荷したんですよ。ただ...」
「条件付きなんですね。例えば高価であるとか...」
「いえいえ、小川さんが支払い可能な範囲内なのですが...」
「では、どう言った条件ですか」
「この本は当店によく来られる方が売りに出されたのですが、その方もディケンズのファンの方なのです。小川さんと同様に
ある本を探しておられるんです」
「なるほど、それは多分、「ドンビー父子」なのですね」
「そのとおり、その方は、どうしても古本として「ドンビー父子」が購入できないので、結果的に「ドンビー父子」が
自分の手に入るのなら、「ニコラス・ニクルビー」を手放してもよいと言われたんです」
「物々交換ということになるのですか」
「そういうわけにはいかないので、それぞれが本を一旦手放していただいた上で、もう一方の方にお売りするという
ことになります」
「なるほど。で、その方はどういった方なのですか」
「残念ながら、その方の希望で一切話さないよう言われています。その方は小川さんのことを知っていると言われていました」
「謎めいた話だな。でも、店主さん、「ニコラス・ニクルビー」の所有者、私の3人がそれぞれ幸せになるのだから、よしとするか...」
「じゃあ、決まった。私からその方に連絡しておきますから、小川さんもなるべく早く、「ドンビー父子」をお持ちください」
その夜、小川は持ち帰り残業をするために書斎で遅くまで起きていたが、床で横になるとすぐに夢の中にディケンズ先生が現れた。
「小川君が久しぶりに私の小説を読んでくれるんでうれしいよ」
「でも、先生、読みかけの本が2冊あるので、それが終わってからになります」
「それは何かな」
「ひとつは、トーマス・マンの「魔の山」なのですが、風光書房で立ち読みしていて、彼の写真が載っているページに彼の名前が、
ンマ・スマートと書かれていて、衝動買いしてしまったのです」
「なぜそんな風に書かれてあったのかね」
「その本が発売されたのが、昭和13年で当時は横書きは右から記載するというルールになっていたんです。だから題名も「山の魔」
です。他にもかなづかいが旧仮名遣いで、古めかしくてぼくは好きなんですが、登場人物の話すことが難解で、特にナフタという
人の話は何がなんだかわからないので、読むのをやめようかと思っていたのですが、主人公が健康のためにスキーを始めたので
また読む気になったのです」
「で、もうひとつはどんな本だね」
「実は、自分の小説に「クリスマス・キャロル」から引用すると決めた時に、ぼくはふと中学時代に読んでいた本のことを思い出したんです」
「ほう、さすがだな。中学時代から小川君はイギリス文学を読んでいたんだ」
「残念ながら、そうではないのです。「世界の怪奇」という大陸書房から出ていた本で、オカルトや超常現象について書かれた本です。
当時の深夜放送でオカルトの話をよくしていて、ぼくも少し興味を持ったのです。「世界の怪奇」は友人から勧められて購入した
のですが、これが、本当に怖くて。特にそこに掲載されている写真がとても怖いんです。人の肖像も何か加工されているようで...。
その本をこの前に神田の古書街で見つけて購入して、読み始めたところなのです」
「まあ、いろいろ事情があるだろうから、気長に待つさ。でも、本格的に読み始めるようになったら、私はゲストを連れて君の夢に
現れるから、楽しみにしていたまえ」
「ええ、楽しみにしています」